
1. 笠原町の位置付けと現状
茨城県庁の移転竣工、平成10年(1998)は、笠原町にとって極めて大きな出来事でした。
それ以前の出来事を遡ると、昭和37年(1962)に県立緑岡高校が開校し、昭和50年(1975)には笠原不動山に県立メディカルセンターが新設されました。
さらに平成3年(1991)、水戸市中央保健所および「いばらき健康管理センター」が相次いで新設されています。
その後、日商岩井を事業主体とした大規模商業施設(いわゆるメガモール構想)が発表されると、水戸市を二分するほどの大きな議論となり、町民は困惑の渦に巻き込まれました。
しかし現在、町はそれを上回る課題に直面しています。ここ10数年で分譲住宅が約1,500戸以上も増加しインフラ整備が追いつかない中で人口が爆発的に増え、笠原小学校の児童数は市内最多となりました。
今後は、より良い住環境が計画的に整備されることが切に期待されています。
2. 歴史的出来事とその背景
笠原不動院(銀河寺)の来歴については、明治13年(1880)の本堂焼失により創建年度などの詳細は不明です。しかし、多宝院文書(現・見川町の多宝院護国寺蔵)によれば、1607年(慶長12年)8月晦日に「浅草寺学頭」より下文(くだしぶみ)が出されていることから、江戸時代初期には既に存在していたことが確認できます。
水戸藩初代藩主・徳川頼房の時代に入り、幕藩体制の確立と藩経営を推進するため、寛文年間(1661~1673年)頃に新田開発が盛んに行われました。
笠原も、現在の千波・見川・平須などとともに開発が進められた地域の一つです。
『水府地理温故録』『水府志料』および『新編常陸国史』によれば、当時の笠原新田の状況は以下の通りでした。
範囲と構成:東は逆川(さかさがわ)を境に米沢村東野新田と接し、南は平須村、西は小吹村と見川村、北は千波村と払沢(はらいざわ)村に隣接。東西約30町(約3.27km)、南北約29町(約3.16km)の広さを持ち、上組・中組・下組の3つの集落で構成されていました。これらの呼称は現在も引き継がれています。
沿革:もともとは吉田村の荒れ地で「笠原」と呼ばれていましたが、正保年間(1644~1648年)以降に一村として独立し、寛文年間に「笠原新田」と名付けられました。
武士の入植:寛文4年の条には「水戸藩士の次男(家督を継げない男子)60人を御馬廻りに任じて笠原新田の地に置く」との記録があります。
規模:1702年(元禄15年)の石高は210石余りで、当時の地理志には戸数約40戸と記されています。
当時の町割りは、クランク状の「桝形(ますがた)」道路を中心とした街形成が一般的でした。これは京都や東京の下町、そして水戸市内にも多く見られる構造ですが、江戸時代は敷地の間口幅で年貢が決まったため、間口に比べて奥行きの長い敷地が多くなったことが要因とされています。
笠原新田開発は、藩が直接予算を投じて役人を派遣する「藩営新田」であったと思われます。『水府志料』には「山野才蔵という者が頭取として開発した」との記述があり、才蔵が開発の実務的指導者であったことが伺えます。
また、同時期に進められた下市の「備前堀」整備は、治水・灌漑・町割りの形成を目的とした重要なインフラ事業でした。1610年(慶長15年)に着工し、翌年には通水という驚異的なスピードで完成しており、関東郡代・伊奈備前守忠次が手がけたことからその名が付いています。
3. 笠原水道と「水源不動」の由緒
水戸藩初代徳川頼房は1661年(寛文元年)6月に水戸へ帰藩しましたが、急な病に倒れ同年7月に59歳で急逝します。
跡を継いだ2代藩主・徳川光圀(水戸黄門)は父の悲願を継承し「下市の飲料水確保」を真っ先に手がけています。これが水戸藩にとっての一大事業 笠原水道でした。
光圀は町奉行の望月恒隆に、恒隆は家臣の平賀保秀(ひらが ほしゅう)に設計を命じ、1663年(寛文3年)に「清水道(せいすいどう)」として完成しました。
『水府志料』によれば、設計を担った平賀保秀は、水源地近くにあった「笠原山銀河寺不動院」の不動堂で一昼夜参籠祈願して、この地を水源地と定めた」とされています。
光圀は、幼少期に遊んだ笠原の湧水が民のために役立ったことを殊の外喜んだと伝えられています。
平賀は下総国佐倉の堀田家に仕えたのち浪人となり、光圀公に登用された和算(数学者)出身の技術官僚でしたが、数理だけでなく天文・地理・測量などの諸科学にも通じており、見事にその任を果たしました。
笠原水道が完成した後、天和3年(1683年)に『漱石所規約』が制定された頃、平賀が祈願した「不動堂」も水源地の坂の上へと曳家(ひきや)され、「水源不動」として祀られることになりました。※寛文5年(1665年)との説あり
4. 幕末の廃仏毀釈とご本尊の秘匿
銀河寺不動院と水源地上の不動堂は、公の命によって1683年以来銀河寺によって一体的に管理されてきましたが、幕末以降は複雑な経緯を辿ります。
天保14年(1843)、9代藩主・徳川斉昭(烈公)は不動院を廃寺し、その地に「水戸神社」を祀りました。この騒動の際中、ご本尊は行方不明になったと記されています。
『水戸市史』では「長福寺へ預けた」、『東茨城郡誌』では「行方知れず」と記されていますが、実際には笠原町の銀河寺檀家が密かに匿い、守り伝えてきたのが実態でした。
今回 再発見されたのが 笠原水源不動の御本尊「不動明王立像」です。
近年浴徳泉脇の藪の中から、故意に傷つけられ折られた状態で「不動堂再建碑(1819年建立)」が発見されています。当時の強引な廃仏がいかに凄まじいものであったかを物語っています。
時の寺社奉行・今井金衛門による銀河寺の釣鐘没収や不動院の廃寺、水戸東照宮の神道一本化などの断行は、後に斉昭が永蟄居を命じられる大きな要因の一つになったと言われます。
しかし廃寺からわずか4年後の弘化4年(1847)に不動堂には再び「倶利伽羅不動(くりからふどう)」の扁額が奉納されました。
この様な経緯から水戸神社は敷地の奥に移され、仏堂内には倶利伽羅龍の奉納額がご本尊の身代わりとして鎮座しました。さらに昭和50年(1975)の仏堂再建を経て、実に180年もの長きにわたり、水源不動としての役割を果たし続けてきたのです。
地元住民から「お不動さん」と慕われ かけがえのない心の拠り所だったのです。
5. 口伝の裏付けと令和の遷座 ―再発見された水源不動―
笠原町には「歴代の氏子総代が持ち回りで仏像を預かっていたが、訳あって圓通寺に預けている」という口伝がありました。私が調査のため圓通寺を訪ねたのは2009年(平成21年)のことですが、当時のご住職から「確かに笠原の氏子中から不動明王像を預かっている」との証言を得て実物を確認し、伝承が正しかったことが確認されました。
銀河寺は天台宗、預け先の圓通寺は曹洞宗という違いがあり、2024年(令和6年)5月に改めて圓通寺を訪ね、諸々のご相談をさせていただきましたところ、歴史的経緯を尊重し、本来の宗派である天台宗門へ遷座することが適切であるとの結論に達しました。
その後、笠原子安神社氏子会総会での全会一致を経て、一任を受けた総代の私豊田が責任を持って仏像を管理しています。そして以前発見していた銀河寺に纏わる関連遺物(御影掛軸、版木、梵字印、女人講記録帳など)も含めて、調査と再整理を進めている所です。
これらの遺物は歴史的に極めて貴重な郷土の遺産であると同時に、笠原の誇りであります。
6. 不動堂の老朽化と再整備
2017年にテレビ番組『ブラタモリ』で笠原水道が特集され、歴史的な暗渠水道として全国に紹介されました。一方で、水源地の真上に立つ不動堂は老朽化が深刻で、同年の『爆報!THE フライデー』では「管理不全の空き家寺」として紹介される事態となりました。
倒壊の危険性や安全面、衛生面の問題から再整備が急務となりましたが、敷地は水戸神社、建物は仏教施設、敷地周辺は逆川緑地公園地区という、複雑な権利関係から行政の介入は困難を極めました。
しかし、高橋靖水戸市長による私募基金の設立や、町内会・関係各所からの協力により、2022年(令和4年)に解体撤去が実施され、2024年(令和6年)5月には記念碑の除幕式が挙行され、長年の懸案が解決へと向かいました。
おわりに
急速な発展を遂げる現在の笠原町において、こうした奥深い歴史を知ることは極めて重要です。歴史を知らなければ、単なる新興住宅地として扱われてしまう危うさがあります。
今回の水源不動のご本尊発見が、郷土の歴史に思いを馳せるきっかけとなれば幸いです。
更にこの遺産が、未来に向かって発展する水戸市の原動力となることを願ってやみません。

■光圀公が隠居した元禄四年(1691)以降、公は度々この地を訪れ「曲水の宴」などを催されています。其の折に詠んだ詩をご紹介します。「五言俳律」
題【夏日遊玖利伽羅山銀河寺林中即興 得池字】 元禄五年壬午(みずのえ うま)
憶曾遊此地 一夢十周朞 不動威厳矣
軽雷聲殷其 雨晴炎暑退 風快積雲披
漱石堅人歯 臨流洗我詩 飛泉清遶座
傾海酔揚巵 瀉下銀河水 漚涼無熱池
(大意)
かつてこの地に遊ぶを思ふ 十年一昔は夢のように過ぎた 不動の威は厳かに感ずる。
かすかな雷鳴が時折聞こえる 雨があがり炎暑が退き風が快く積雲は抜けてゆく。
孫楚漱石ではないが 我は詩で流そうなどと考える 泉の水は座の周りを清らかに流れている。
海を傾けるがごとく飲んで 酔って杯を揚げるとは何と楽しい事よ。
勢いよく銀河の水が注がれ ここは涼しきことこの上ない阿耨達池のようだ。
■常盤公園覧勝図誌 (坤)より 明治十八年十二月刻成
志けりあふ
笠原山の 下露ハ ぬれぬ時雨の 何めより
まされり
戸牧久
「読み下し文」
生い茂る 笠原山の 木々の下の露は 漏れることのない 時雨(しぐれ)の 雨よりも まさっている。
戸牧久衛門(とまき きゅうえもん) 水戸藩士・歌人
2026年(令和8年)8月
【文責】 水戸市笠原町中組 郷土史家 豊田洋一




