光圀公と医の仁術

「医者に行けない民を救いたい」── 光圀公の願いは、西山荘の薬草園から日本最古の家庭医学書『救民妙薬』、水戸藩の名薬「司命丸」へと受け継がれました。

読み物

『救民妙薬』について

日本初の家庭向け医学書

『救民妙薬(きゅうみんみょうやく)』は、江戸時代初期の元禄6年(1693年)に、水戸藩二代藩主・徳川光圀(水戸黄門)の命によって編纂された日本初の家庭向け医学書です。

医者の治療を受けられない庶民のため、野山の草木など手に入りやすい材料を使った治療法や健康法が、庶民にも分かりやすい言葉でまとめられています。編纂したのは常陸国水戸藩医・穂積甫庵宗与(ほづみ ほあん そうよ)でした。

序文(現代語訳)

主君(徳川光圀公)が、身分の低い民の尊い命を育もうと思われてのことである。山奥や田舎の貧しい地域には、優れた医師もおらず、薬もない。一般の領民たちが病気になった時は、ただ自力で回復するのを待つほかない。……そこで、手軽に手に入る簡単な処方を集め、それぞれの病気に対して、その土地土地で簡単に手に入れることができる処方(薬方)を三百九十七種類編集し、書名を『救民妙薬』と名付けた。これを山奥や田舎に暮らす人々へ広く分け与え、どうか人々を救う一助となることを切に願うものである。

── 元禄六年(1693年) 常陸国 水戸藩医 穂積甫庵宗与 編纂

元禄8年(1695年)には続編も出版され、初版よりもさらに分かりやすい文体に編集されました。

読み物

印籠に込められた至高の仁術 ── 水戸藩の名薬「司命丸」と高倉家

黄門様の印籠について

水戸藩の名薬「司命丸」の引札(広告)
「司命丸」引札(当時の広告)

テレビドラマ『水戸黄門』のクライマックス ── 格さんが「この印籠が目に入らぬか!」と葵の御紋を突きつける、あの名場面。権威の象徴として描かれる印籠ですが、本来の「印籠」とは、中に薬を入れて持ち歩くための小さな携帯用の薬入れでした。

光圀公は「医者に行けない貧しい領民を救いたい」という一心から、身近な薬草の効能をまとめた日本最古の家庭医学書『救民妙薬』を編纂しました。その「民の命を救う」という精神は光圀公の死後も水戸藩の医師や学者たちに受け継がれ、江戸時代後期、ついに究極の和漢薬「司命丸(しめいがん)」として結実します。

「司命」とは人間の寿命を司る神のこと。「病に苦しむ人々の命を救い、寿命を延ばす」という、黄門様が掲げた「仁術(じんじゅつ)」の理想が込められた名前でした。

明治の夜明けと「司命丸」の一般開業

明治維新で水戸藩が幕を閉じると、藩の庇護を失った司命丸は歴史から消えかけます。この名薬を民間の薬として広く世に普及させたのが、水戸市河和田(かわわだ)の地に根を下ろした高倉家の人々でした。風邪や腹痛などに効く司命丸は「家庭の守り神」として、茨城県内だけでなく全国へと名声を轟かせました。

河和田町に遺る「二つの碑」

水戸市河和田町には、高倉家の功績を伝える二つの記念碑が残されています。一つは「司命丸開業百年祭」の碑。もう一つは屋敷前に立つ「高倉長八郎・信太郎父子事績頌徳碑」です。昭和45年(1970年)建立のこの頌徳碑の題字は、当時の内閣総理大臣・佐藤栄作の直筆による「愛国」の二文字。撰文は水戸学研究の第一人者・文学博士 肥後和男が執筆しました。

高倉家にとって司命丸の製造は単なるビジネスではなく、光圀公が西山荘の薬草園で抱いた「民を愛する心」を現代に再現する務めでした。ドラマの印籠から取り出される薬の輝きは、時を超えて河和田の地で、本物の「郷土愛」へと昇華したのです。

読み物

百樹園・百色山と西山荘「薬草園」の関係

光圀公が育んだ薬草の系譜

西山荘全景(昭和55年撮影)
西山荘全景(昭和55年撮影)

徳川光圀の「百色山(ひゃくいろやま)」と、それを継承して昭和に誕生した「百樹園(ひゃくじゅえん)」を結ぶ歴史は、一人の豪商の熱意と、植物学の大家たちの魂が交差した、水戸が世界に誇るべき壮大な物語です。

1. はじまりの地:那珂川沿岸の「三反田」と、失われた「百色山」

かつて寛文年間(1661〜1681年頃)、徳川光圀(義公)は那珂川沿岸の三反田(さんたんだ:現在のひたちなか市三反田)の地に、約100種類の有用な樹木を集めた見本林「百色山」を築きました。

民衆の生活を豊かにするための植林の普及や、産業奨励を目的とした、光圀の「実学」を象徴する画期的な試みでした。

しかし、時代の変遷とともにこの百色山は荒廃し、木々は失われていきました。

2. 光圀「生誕300年」の決意:木村伝兵衛氏の私財を投じた挑戦

大正から昭和へと移り変わる中、この百色山の消滅を誰よりも深く憂いた人物がいました。それが、水戸の下市(本町)で井伝醤油を営み、のちに「百樹翁(ひゃくじゅおう)」と慕われることになる4代目・木村伝兵衛氏です。

昭和3(1928)年、水戸藩にとって大きな節目である「徳川光圀公生誕300年」を迎えました。

伝兵衛氏はこの記念すべき年を機に、「義公(光圀)が民のために作った百色山の精神を、今こそこの地に再現しなければならない」と固く決意します。

伝兵衛氏は光圀の遺志を次代へ伝えるため、水戸市元吉田町の広大な土地に、驚くべきことに全額私財を投げ打って「百樹園」の建設を計画・スタートさせました。

3. 朝ドラ『らんまん』のモデル:牧野富太郎博士による学術設計と指導

木村伝兵衛氏が目指したのは、単なる美しい庭園ではなく、誰もが学びを得られる「近代的な学術植物園(社会事業)」でした。

この壮大な志に共鳴し、設計・指導に名乗りを上げたのが、地元の旧制水戸高等学校(現在の茨城大学の前身)の教授であった野原茂六氏、そして後にNHK連続テレビ小説(朝ドラ)『らんまん』のモデルとなる日本の植物分類学の父・牧野富太郎博士でした。

【学術的に計算された園内設計】

牧野博士や野原氏らの厳密な学術的指導のもと、園内は単に木を植えるのではなく、植物系統学に基づいて精密に分類されていきました。

裸子植物: 3科61種

被子植物: 61科324種

総樹木数: 856本(名木・奇木を含む)

これら膨大な植物が、学生や一般の人々が「見て学べる生きた標本」となるよう配列されたのです。

4. 昭和8年の完成と牧野博士の絶賛

構想から5年、巨額の私財と一流の学者たちの情熱が結実し、昭和8(1933)年10月、ついに「百樹園」が開園の日を迎えました。

開園式には、東京から牧野富太郎博士本人が招かれ、自ら園内を歩いてその見事な仕上がりに深く感動しました。

翌日の地元紙「いはらき新聞(現在の茨城新聞)」には、牧野博士が寄せた以下の賛辞が誇らしく掲載されています。

「社会事業として極めて立派なものであり、水戸の誇りである」

5. 時を超えて水戸市民の財産へ

木村伝兵衛氏という一人の実業家が光圀の志に感銘を受け、私財を投じて作ったこの学びの森は、昭和58(1983)年に水戸市に寄贈され、現在は誰もが無料で入園できる「都市公園・百樹園」として大切に守られています。

三反田の地で光圀が夢見た「有用樹木の森」は、昭和の時代に牧野博士の知性と伝兵衛氏の無私の精神によって「百樹園」へと昇華され、今もなお水戸の街の中に静かで豊かな緑の息吹を送り続けています。

6.西山荘「薬草園」への昇華と民生救済の結実

三反田の地で光圀公が夢見た「有用樹木の森(百色山)」の精神は、晩年に隠居した西山荘における「薬草園」の開設計画へと脈々と受け継がれ、さらなる結実を見せることになります。

光圀公は西山荘の周辺に自ら薬草や薬木を植え、その効能について熱心に研究を重ねました。この実践的な知見をもとに、元禄6(1693)年には侍医の鈴木宗与(穂積甫庵)に命じ、身近な生薬の処方397種を収めたわが国初の家庭医学書『救民妙薬』を刊行・配布させました。

これは高価な薬の買えない貧しい領民のために、身近な植物とその調合法を分かりやすく記した、当時としては画期的な民生救済の書でした。

三反田(ひたちなか市)で始まった「産業を興すための植物研究」は、西山荘(常陸太田市)での「人命を救うための医療研究」へと広がり、そして昭和の時代に木村伝兵衛氏と牧野富太郎博士の手によって水戸の「百樹園」へと再生されました。江戸から昭和、そして現代へと至る水戸の緑の系譜の根底には、常に「人々の暮らしに役立てる」という光圀公の本草学(実学)の熱い魂が息づいているのです。

文化と人物 詳解

水戸黄門ゆかりの文化と人物について、読み物としてご紹介します。

読み物

水戸黄門漫遊記について

講談・速記本から国民的英傑へ

明治の世、国立国会図書館デジタルコレクションの奥付を繰れば、そこには明治三十年十一月という文字がひっそりと刻まれている。

田辺南麟が語り、大河内政之助がその筆先にのせて紙上に定着させた『水戸黄門全国漫遊記(小説三十六花撰 第2号)』。この一冊の速記本こそが、実在の史実たる「水戸光圀」という高潔な歴史上の偉人を脱ぎ捨て、後世の日本人が愛してやまない「天下の副軍監・水戸黄門」を決定的に誕生させ、現在へと続く一大系譜の最初の一滴となった文脈である。

そもそも、江戸期における水戸光圀という存在は、大日本史の編纂に生涯を捧げた「義公」としての政治家であり、あるいは儒学の深淵に遊ぶ知識人として語られるのが常であった。なるほど、江戸末期から明治初頭にかけても、光圀の名を冠した講談や実録風の講釈は存在した。しかし、それらはあくまで史実の断片をなぞるか、さもなくば一部の演芸好きの耳を密やかに愉しませる局所的な娯楽に過ぎなかったのである。

その潮流を一変させたのが、明治の世に咲いた「速記本」というメディアの革新であり、田辺南麟という類まれなる講釈師の口演であった。

南麟が高座に上がり、叩き釈台を「トン」と叩く。その心地よいリズムに乗せて語られたのは、かつての威厳に満ちた徳川光圀ではない。頭巾をかぶり、竹の杖を突き、名もなき市井の百姓や町人に混じって街道を歩む、どこか親しみやすくも眼光紙背に徹した一老人の姿であった。さらに南麟は、光圀の傍らにふたりの若者を配した。文武に長けた佐々木助三郎と、質実剛健な渥美格之進――いまや日本人のDNAにまで刻まれた「助さん・格さん」という絶妙な配置は、南麟の口から発せられた講談の熱量によって、はじめて生き生きとした生命を与えられたのである。

街道筋の旅籠で起きる理不尽な事件、悪徳商人や腐敗した代官の暴挙。絶体絶命の危機に瀕した庶民の前に、突如として差し出される印籠の影。抑圧された民衆の感情を一気に解き放つこのカタルシスは、南麟の鮮やかな弁舌によって極限まで高められ、聴衆を狂喜させた。

そして、その高座の興奮は一瞬の幻影として消え去ることを拒んだ。大河内政之助の速記術によって文字として書き留められた講談は、明治三十年十一月、上田屋から『水戸黄門全国漫遊記』という一冊の印刷物となって世に放たれたのである。

活字となった南麟の物語は、日本全国の書肆や街頭の書棚を埋め尽くした。電信や鉄道が全国を網の目のように結び始めていた明治の世において、この本は驚異的な速度で普及していった。それまで限られた講場に足を運ばねば聴くことのできなかった物語が、紙面を通じて一卵性双生児のように日本中の家庭へと伝播していったのである。人々は燈火のもとでページをめくり、印籠の威力に胸を躍らせ、黄門様の世直しに喝采を送った。

この明治三十年の『水戸黄門全国漫遊記』の大ヒットこそが、水戸黄門というキャラクターを一講釈師の持ちネタから「国民的英傑」へと押し上げた真の起爆剤であった。

後にこの物語の系譜は、大正の八千代文庫をはじめとする幾多の再販・連作本へ、さらには大衆小説、そして無声映画からトーキーへと移り変わる銀幕の世界へと受け継がれていく。そして昭和の高度経済成長期、メディアの主役が映画から茶の間のテレビジョンへと移行したとき、この伝統ある「漫遊記」はかつてない黄金期を迎えることとなる。

ナショナル劇場をはじめとするTV時代劇として茶の間に登場した「水戸黄門」は、南麟が講談で確立したあの不変のフォーマットをそのまま受け継ぎ、さらに洗練させた。東野英治郎をはじめとする歴代の黄門様が響かせる高らかな高笑い、助さん・格さんの殺陣、風車の弥七やうっかり八兵衛といった魅力的な道中連れ、そして終盤で響き渡る「この紋所が目に入らぬか」の一言。それは単なる娯楽番組の枠を超え、毎週月曜の夜に家族全員が居間に集まり、変わらぬ正義の勝利に胸を撫でおろすという、日本の現代社会における新たな「国民的儀式」となったのである。

白黒からカラーへ、講談の高座から速記本、そしてブラウン管から液晶画面へ。時代と共に物語を伝える媒体はその姿を大きく変えていった。しかし、どれほど技術が進化し、人々の生活様式が変わろうとも、そこに貫かれている魂はただひとつ。明治三十年十一月、田辺南麟という一人の講釈師が扇子を叩き、民衆の歓声を浴びながら紡ぎ出した「弱きを助け、悪を挫く」という爽快な物語の熱量に他ならない。

一枚の印籠に秘められた正義の物語は、明治の速記本という文明の利器を得て産声を上げ、時を超えてテレビ時代の茶の間で満開の花を咲かせた。田辺南麟が灯した講壇の火は、今なお日本のエンターテインメントの底流で、失われることのない輝きを放ち続けている。

読み物

黄門様と儒医 井上玄桐について

光圀の素顔を伝えた侍医

井上玄桐(いのうえ げんとう)の来歴と業績

1. 来歴:京都での修業から水戸藩仕官へ

出自と医学の修業: 京都の出身で、はじめは寺井玄東と称しました。当時、日本の医学界の主流であった曲直瀬(まなせ)流の門を叩き、医術を学びました。

玄桐が直接師事したのは、二代目・曲直瀬玄朔(げんさく)をはじめとする、曲直瀬流(啓迪院)を継承した人物たちであると考えられます。

当時の最高峰の医学知識と技術を身につけ、医師としての素養を確立しました。

2.徳川光圀への仕官: 天和2年(1682)

その優秀な学識と医術を認められ、水戸藩主・徳川光圀に召し抱えられました。光圀からの信頼は非常に厚く、公私にわたり深く交流しました。

3.晩年:元禄13年(1700)

光圀が没すると職を辞し、故郷である京都に戻りました。元禄15年に同地で死去しました。号は「挹翠(ゆうすい)」と称しました。

4. 主な業績と歴史的価値

『玄桐筆記』の執筆(1701年成立)は 光圀の没後、京都に退隠した玄桐が、光圀の言行を直に聞き取って記録した回想録です。これが彼の最大の業績であり、歴史的功績です。

公式記録にない「名君の実像」の保存『大日本史』などの公的な藩の編纂書には記録されない、光圀の人間味あふれる素顔や慈悲深いエピソードを後世に残しました。

若年期の放蕩と悔いや暴れん坊であった若き日の光圀(「鶴殺しの長作」の逸話など)が、いかにして過去の行動を悔い改め、名君へと成長していったかという実像を赤裸々に伝えています。

慈悲とリーダーシップの記録として、罪人や身分の低い者に対しても公平にして寛大な措置や、組織のリーダーとしての深い配慮・心得など、彼らの強い信頼関係があったからこそ引き出せた生きた対話が詳細に記されています。

井上玄桐は、「曲直瀬流の確かな医学背景」を持ちつつ、水戸藩の侍医・側近として光圀に深く寄り添った人物です。彼の残した『玄桐筆記』は、単なる主君の伝記にとどまらず、公式の歴史からこぼれ落ちてしまう「光圀の人間味や統治者としての本質」を現代に伝える、第一級の歴史的史料となっています。

読み物

都々逸坊扇歌について

都々逸を生んだ半眼の天才

天保の飢饉という名の人災が、日本の風土を根底から腐らせていた時代の話である。常陸国久慈郡磯部村の重苦しい空の下、一人の医師が蘭学書と向き合っていた。男の名は岡玄作。彼は学問の真理を探究する者であったが、その理性の光は冷徹を極め、血肉の通う我が子の命さえも、一個の観察標本としてしか見ていなかったのかもしれない。

飢えと不衛生が全国を席巻する中、赤痢や麻疹、そして恐ろしい疱瘡(天然痘)が猛威を振るっていた。玄作はある日、手に入れた蘭学書の中に異様な記述を見出す。「疱瘡の患者に青魚を与うれば、その病、極まりて死に至る」。その真偽を確かめんとする狂気的な知的好奇心は、事もあろうに高熱にうなされる実の息子二人へと向けられた。

長男には鯖を、二男の福次郎――のちの扇歌には鰯を。

食卓に並べられた青魚の皿が、兄弟の運命を決定づける地獄への引き金となった。青魚の毒が回った長男は、高熱の中で両の瞳から光を失い、呻き苦しんだ末に息絶えた。一方、一命を取り留めた福次郎もまた、右眼の視力を完全に奪われ、左眼もかろうじて光を感じる程度の「半眼」という重い障害を負うこととなった。ノートに無機質な観察記録をつけ終えた玄作にとって、傷物となった二男はもはや不要の存在であった。

片方の視界を永遠の闇に閉ざされた少年は、間もなく家を追われ、他家への奉公へと出される。半眼の身ではまともな農作業も職人の修行も叶わない。世間の冷ややかな嘲笑と差別に晒される日々の中で、福次郎の心には実父への激しい怨念と、死んだ兄への哀悼、そして世の理不尽に対する深い失望が黒々と澱のように溜まっていった。

だが、暗闇の中で生きていくことを強いられた福次郎には、天より授かったたった一つの武器があった。生まれついての類稀なる美声と、圧倒的な音感である。

「この半目の身体で生き抜くには、芸を売るしかない」

福次郎は三味線ひとつを背負い、泥水をすするような気持ちで諸国巡業の修行旅へと身を投じた。北へ南へ、足が棒になるまで歩く旅路。旅芸人の唄う街頭の歌、船頭の口ずさむ舟唄、各地に伝わる古い民謡や流行歌……。福次郎はすさまじい執念でそれらを聴き取り、自らの体内に吸い上げていった。

昼間の光が眩しすぎる半目の眼を細め、三味線の糸を叩くように弾く。彼の胸の中で、各地の民謡の旋律と自らの血の滲むような情念が混ざり合い、研ぎ澄まされていった。そうして削ぎ落とされ、七・七・七・五という完璧な音数律へと昇華されたもの――それこそが、のちに江戸の町を熱狂させる「都々逸」の誕生であった。彼が編み出した旋律が、単なる色恋や軽妙な洒脱にとどまらず、どこか影があり、人間の哀しみや世の不条理を深く抉る「狂歌」と評された真因は、まさにこの凄惨極まる生い立ちの中にあったのである。

やがて江戸へ上り、「都々逸坊扇歌」と名を改めた彼は、寄席の高座に立つや否や爆発的な人気を博した。あまりの人気に周囲の寄席から客が消えたと言われ、「八丁あらし」の異名をとるまでになる。

「たんと売れても売れない日でも 同じ機嫌の風車」

「売れようが売れまいが、俺は自らの風で回るだけだ」という投げやりな粋。その裏に潜む壮絶な過去を知らぬ江戸っ子たちは、その美声と鋭い風刺に惜しみない大喝采を送った。

彼の名声はついに城郭の重い門を叩き、加賀百万石・前田家の江戸藩邸へと招かれるに至る。威風堂々たる大広間、殺気立った武士たちが居並ぶ中央で、加賀の殿様は下座に控える半目の扇歌を見下ろし、難解なお題を投げかけた。武家の嗜みである歴史書、『吾妻鏡』である。

「これで七・七・七・五を詠んでみよ。できねばタダでは返さん」

並の芸人ならば恐れをなして平伏するところ、幼少期に人間の真の地獄を見てきた扇歌にとって、武士の威圧など痛くも痒くもない。扇歌は半目の眼を細め、ニヤリと笑うと三味線のバチを力強く振り下ろした。

「上はかね(金) 下に杭(くい)なし 吾妻橋」

大広間が凍りついた。『吾妻鏡(あづまかがみ)』を江戸の『吾妻橋(あづまばし)』と掛け合わせた見事な即興。しかし、この歌の神髄はその先にあった。「上はかね」は橋の欄干の豪華さと、幕府や権力者など「上の者」が金銭にまみれて腐敗している様を告発し、「下に杭なし」は橋の構造と「下にいる貧しき庶民は食う(杭)ものもなく餓死している」という世相への痛烈な毒を秘めていた。

天保の大飢饉で自分たち兄弟が見捨てられたように、権力者は常に庶民を見捨てる――。命をかけた風刺に家臣たちは刀の柄へ手をかけたが、殿様はその胆力と圧倒的な芸に破顔一笑し、お咎めなしと相成った。

しかし、光は長くは続かない。天保の改革という名の圧政の嵐が吹き荒れると、お上を風刺し続ける扇歌は危険分子とみなされ、ついに「江戸十里四方追放」のお裁きが下る。

最愛の舞台である寄席を奪われ、江戸を追われた扇歌が行き着いたのは、常陸国府中(現在の茨城県石岡市)にある実の姉の嫁ぎ先であった。狂気の父の犠牲となった弟を可哀想に思う姉は、傷ついた扇歌を温かく迎え入れた。しかし、高座という唯一の光を奪われた扇歌は、昼間から酒に溺れ、痩せ衰えていく。

「磯部田んぼの ばらばら松は 風も吹かぬに 気がもめる」

地元の呑み屋で三味線を頼まれれば、故郷の風景を歌ってみせるものの、かつて江戸を揺るがした覇気はどこにもない。扇歌にとっての高座とは、失った視界の代わりに手に入れた唯一の「生の証明」であり、我が身の闇を笑いと歓声で包み込んでくれる唯一の神殿であったのだ。

嘉永五年、長年の酒と心の傷が体を蝕み、四十九歳の扇歌は病床で最期の時を迎えようとしていた。実姉が看病する枕元で、うなされる扇歌は細く痩せこけた腕を空へと伸ばす。

「お姉さん……三味線を……俺の三味線を取ってくれ……」 「ダメだよ扇歌、そんな体で三味線なんて……」 「頼む……一節でいいんだ……! もう一度だけでいいから、江戸の高座に上がりたいんだよ……!」

落ち窪んだ半目の眼から涙をぼろぼろと溢れさせ、彼は泣き叫ぶように訴えた。 「おいらの都々逸を……おいらの狂歌を待ってる客がいるんだ……! 父上への恨みも、世間の冷たさも、全部歌に変えて……もう一度だけ高座で歌いたいんだよ……!」

「高座へ……高座へ……」と呟きながら、彼はついに帰らぬ人となった。

父の狂気によって片目の光と兄を奪われ、世間の冷酷さに晒されながらも、その泥の中から生まれた「都々逸」。扇歌が残した七・七・七・五の調べは、単なる色恋の俗曲ではない。理不尽な世界に痛めつけられたすべての人々の哀しみを救う、魂の告発であり、絶唱であった。

彼が去った今も、風が吹くたびどこからか、半目の天才狂歌師が弾く切なくも力強い三味線の音が、遠い闇の彼方から聞こえてくるようである。

読み物

古学庵と幻窓湖中「俳諧一葉集」について

水戸に灯した芭蕉の風

水戸の地、笠原山銀河寺の古刹で、芭蕉の正風俳諧の灯を燃やし続けた一人の俳僧がいた。古学庵仏兮。京都という文化の都を離れ、常陸の水戸に流れ着いたこの僧は、その短い生涯を俳諧という幽玄な世界に捧げた。そして、この孤高の僧と運命的な出会いを果たしたのが、若き幻窓湖中であった。

古学庵仏兮は、京都で正山、祇憲と称していた天台宗の僧である。彼が水戸の笠原山銀河寺に安住の地を定めたのは、芭蕉の「ひとつ葉」の精神を常陸の地に遺すための天命であったのかもしれない。湖中は、この師の存在を芭蕉の再来のごとく崇め、師の添削を受ける日々を「渡りに棹さす心地」と表現した。

二人が笠原の地で交わした句作の時間は、まさに芭蕉の精神を水戸の風土に根付かせるための、聖なる儀式にも似た対話であった。

しかし、その師弟の絆はあまりにも唐突に断ち切られる。文化元年、古学庵は比叡への旅の途中、富士川の難所である鰍沢(かじかざわ)にて溺死。冷たき流れに飲み込まれ、自らの志を完遂できぬ無念さの中、彼は郷里を遠く離れた旅先で静かに息を引き取ったのである。享年三十六歳。

師の最期は、湖中という弟子にとって、あまりに悲劇的で受け入れがたい現実であった。古学庵が京都から運んできた「芭蕉の風」は、この鰍沢の地で突然に途絶えることとなった。湖中にとって、この死は自身の俳諧という精神的な支柱を根底から揺るがすほどの衝撃であった。

太田資胤(初代湖中)より続く、湖中一派における正風俳諧継承の証であり、湖中が師・古学庵を深く敬慕し、芭蕉の研究において師の導きを仰いだことは疑いようのない事実であるが、俳諧の系譜と印章の継承は、湖中自身の家系および一派の中で脈々と受け継がれてきたものであった。

湖中が後に建立した供養碑や『俳諧一葉集』に師の名を冠したのは、印章による権威付けではなく、師と分かち合った「魂の共有」そのものを後世に伝えるためであった。師が鰍沢で遺した無念を、弟子である自らが芭蕉研究という形で昇華させることが、師への唯一の供養であると考えたのである。

四、執念の結晶:『俳諧一葉集』に込められた思い

師の没後、湖中は三十年という気の遠くなるような歳月を費やし、『俳諧一葉集』の編纂に着手した。鰍沢の地で師が抱いたであろう無念を、文字として、学問として形にしようとしたのである。特筆すべきは、湖中がこの大著を完成させた際、師・古学庵の名を共編として冠した点にある。自らの功名を誇ることなく、師の教えを基底に据え、師と二人で作り上げた「芭蕉の理想郷」を形にしようとしたのである。

五、時を超えて響く「一つ葉」の調べ

幻窓湖中にとって、古学庵という存在は、死してなお、芭蕉の正風を解くための永遠の師であった。鰍沢での突然の死を悼み、その教えを体系化することで、湖中は師との対話を時空を超えて継続させたのだ。私たちがこの『俳諧一葉集』を手に取るとき、そこには単なる文学的価値以上の、師弟の深い魂の絆を感じ取ることができる。古学庵が京都から水戸へと運んだ芭蕉の風は、湖中という真摯な研究者の手によって濾過され、純粋な正風の響きとなって、現代の私たちにも届いているのである。

幻窓湖中が遺した一冊の書物は、師弟を超えた共著として、今もなお、古学庵の穏やかな面影と、師を慕い続けた湖中の情熱を、水戸の歴史の中で静かに語り続けている。鰍沢の冷たい風の中で燃え尽きた師の志は、湖中の情熱という油を注がれ、こうして現代までその灯火を失うことなく輝き続けているのである。

読み物

安積澹泊の来歴

『大日本史』を支えた「格さん」のモデル

安積澹泊(あさか・たんぱく)は、明暦2年(1656)に水戸に生まれた江戸時代の儒学者・史学者であり、水戸藩の修史事業を代表する人物である。諱(いみな)は覚、通称を覚兵衛といい、号を澹泊斎などと称した。現在、その屋敷跡は水戸市梅香一丁目にあったとされ、茨城県JA会館の敷地内に安積澹泊屋敷跡を示す記念碑が置かれている。

澹泊の生涯を理解するうえでとりわけ重要なのが、少年時代における明の儒学者・朱舜水との出会いである。徳川光圀は、明から日本に亡命していた朱舜水を招き、儒学や礼制、学問について積極的に教えを受けた。光圀のもとに集まった学者たちは、こうした朱舜水の学問から大きな影響を受けることになる。やがて光圀が進める『大日本史』編纂のための史局「彰考館」には、優れた学者や若き俊才が集まり、水戸藩を代表する学問の拠点へと発展していった。

その中でも澹泊は、朱舜水から直接教えを受けた人物の一人である。寛文5年(1665)、10歳の澹泊は朱舜水の門に入り、江戸において儒学を学んだ。幼少の身でありながら、その学識と理解力は舜水の認めるところとなったと伝えられる。日本語と中国語という言葉の違いがあるため、二人の学問上の交流では筆談が大きな役割を果たした。夜遅くまで続いた問答を通じて、澹泊は単に古典の文章を暗記したり、格調ある文章を書いたりすることだけが学問ではないことを学んだとされる。

舜水が重んじたのは、文字や形式の背後にある人間の真実を見極め、社会のために実際に役立つ「実」を求める姿勢であった。すなわち、表面的な知識や学問上の技巧ではなく、「心の裏」を見て物事の本質を捉えること、そして自らの心に偽りなく行動することを重視したのである。この教えは、その後の澹泊の学問と修史の姿勢にも大きな影響を与えたと考えられる。また、澹泊が後に用いることになる「澹泊」の号についても、朱舜水から授けられたものと伝えられている。

寛文6年(1666)、父・安積貞吉(希斎)が亡くなると、澹泊は11歳で家督を継いだ。その後、寛文10年(1670)には痘瘡を患ったことから水戸へ帰り、水戸藩士としての道を歩むことになる。若年ながら藩務に携わり、次第にその学識を認められていった。

そして天和3年(1683)、28歳のときに徳川光圀の史局である彰考館に入り、史館編修を命じられた。ここから澹泊の生涯は、本格的に『大日本史』編纂と結びつくことになる。彰考館では、古代から中世に至る日本の歴史を正確な史料に基づいて編纂するという、当時としては極めて大規模な修史事業が進められていた。澹泊は豊富な知識と確かな判断力を発揮し、史料の調査・検討、紀伝の執筆・校訂などに携わった。

元禄年間に入ると澹泊の地位はさらに高まり、元禄6年(1693)には彰考館総裁に就任した。総裁となった澹泊は、『大日本史』編纂の中心人物として、紀伝の稿本全般の校訂や加筆・訂正に当たり、修史事業を実務面から支えた。朱舜水から学んだ「実」を重んじる姿勢は、史料を吟味し、事実を確かめながら歴史を記述するという澹泊の学問にも生かされたと考えられる。

元禄13年(1700)に徳川光圀が没すると、澹泊は光圀の事績を後世に伝える仕事にも携わった。元禄14年(1701)には『義公行実』の編纂に参加し、その後も『大日本史』の紀伝稿本の校訂・加筆を続け光圀の死後も修史事業を継続し、水戸藩の歴史学・儒学の発展に大きな足跡を残した。

正徳4年(1714)には彰考館総裁を辞したが、修史事業から離れたわけではなく、その後も史館において研究と校訂を続けた。享保年間には『大日本史論賛』の執筆に取り組み、さらに徳川家康の伝記である『烈祖成績』の編集にも携わった。享保18年(1733)に致仕した後も、なお彰考館の仕事を続け、長年にわたる修史活動を最後まで支えた。

元文2年(1737)12月10日、澹泊は水戸梅香の自宅において83歳で没した。10歳で朱舜水に学んで以来、実に70年以上にわたって学問と藩務に生き、そのうち約50年間を『大日本史』の編纂に捧げたことになる。その生涯は、徳川光圀が始めた修史事業を次代へと引き継ぎ、完成へ向けて大きく前進させたものだった。

安積澹泊は、朱舜水から学んだ儒学を基礎として、徳川光圀の『大日本史』編纂を学問的・実務的に支え、彰考館総裁として水戸藩の修史事業を主導した、前期水戸学を代表する学者である。その功績から、後世には「水戸黄門漫遊記」に登場する渥美格之進、いわゆる「格さん」のモデルともされるようになった。ただし、これは後世の物語・講談によって形成された人物像であり、史実上の澹泊が光圀に随行して諸国を漫遊したことを示すものではない。

このように安積澹泊は、単なる水戸藩の儒学者ではなく、朱舜水の学問を受け継ぎ、それを水戸藩の国家的な修史事業である『大日本史』の編纂に結実させた人物であった。その生涯は「朱舜水に学んだ少年・安積覚兵衛が、徳川光圀の信頼を得て彰考館総裁となり、半世紀にわたって『大日本史』を支えた」という、水戸学形成の歴史そのものの一端を示している。

笠原ゆかりの漢詩・和歌を表示
【笠原の紅楓】」 ※神埼八景小序

樵唱牧笛聞南岸 倚門而望則風霜揺落之紅楓曝錦 是笠原之勝景也

「現代語訳」

木こりの歌声や牧童の笛の音が、南岸から聞こえてくる。 門にもたれて南を眺めると、風や霜によって散りゆく紅葉の楓が、まるで錦を広げたように美しく見える。 これこそが笠原のすぐれた景観である。

【妙法瀑布】 ※常盤公園覧景勝図誌

妙法瀑布 瀑泉穿石落 池水入湖流 橋影隨波動 經聲入竹幽 白雲簷際宿 青靄座間浮 欲問瑜珈教 鶯啼楊栁洲

「現代語訳」

激しい滝の水が岩を削るように流れ落ち、

池の水はそのまま湖へと注ぎ込む。

橋の影は水面の波に合わせて揺れ動き、

お経の声は竹林の奥深くへと静かに響いていく。

白い雲は軒先にゆったりととどまり、

青みがかったもやは座っているあたりに漂っている。

「瑜珈(ヨガ)の教えとはどのようなものですか」

と尋ねてみようとすると、

ウグイスがヤナギの茂る中州で鳴いていた。

【笠原秋鹿】 ※清水谷大納言実業郷

もみち葉の雨とふるなり笠原に かくれかねてや牡鹿なくらむ

「読み下し」

紅葉葉の雨と降るなり、笠原に 隠れかねてや、牡鹿鳴くらむ

読み物

佐々介三郎宗淳の来歴

全国を巡った「助さん」のモデル

テレビドラマ『水戸黄門』において、水戸光圀公の側近として印籠を掲げ、諸国を漫遊する豪傑「助さん」そのモデルとして一般に広く知られているのが、水戸藩の史臣・佐々介三郎宗淳(さっさ・そうじゅん1640―1698)である。しかし、歴史のなかに実在した宗淳の姿は、剣を携えて旅に随行するだけの架空の人物像とは大きく異なっている。

実在の宗淳の本当の仕事は、自ら全国各地に足を踏み入れ、古文書・系図・寺社縁起・碑文・古器物・古跡などを実地に調査し、近世日本を代表する歴史書『大日本史』の根拠となる膨大な歴史資料を収集することであった。

茨城県立歴史館も、宗淳の修史事業における最大の業績を「関西・九州・中国・北陸など全国各地にわたる史料採訪」と位置づけている。本稿では史実に基づき、宗淳の生涯、全国を巡った採訪の実態、そして水戸藩の歴史学に果たした画期的な意義について詳述する。

妙心寺の禅僧から還俗、そして彰考館へ

佐々介三郎宗淳は、寛永17年(1640)に生まれた。若き日の彼は俗世を離れ、15歳の頃に京都の妙心寺で禅僧となり、「祖淳」と号して厳しい修行に励んでいた。しかし、その後還俗して江戸へと出ることになる。そして延宝2年(1674)、35歳のときに徳川光圀の史局である彰考館に入り、本格的に修史事業に携わることになった。

彼の通称は介三郎、号は十竹といい、当時の歴史史料には「佐々助三郎」と表記される例も見出せる。さらに、茨城県立図書館が所蔵する宗淳自筆の書簡においても、署名は「佐々木介三郎」として残されている。こうした名義の揺れや記録の残し方も、彼が歴史の表舞台と現場の間でいかに活発に活動していたかを物語る証左といえる。

2. 『大日本史』編纂が求めた「原史料」の重視

徳川光圀が進めていた『大日本史』の編纂は、単に既存の歴史書を寄せ集めて書き写すような生易しい事業ではなかった。古代から南北朝・室町期に至る日本の歴史を、できる限り原史料によって厳密に検証し、新たな歴史書として編み直そうとする、類まれな巨大プロジェクトであった。

そのためには、江戸や水戸の藩邸に集められた既存の書物だけでは到底足りなかった。歴史の舞台となった実際の土地へ人を送り、そこに今なお残る記録そのものを直接調査する必要があったのである。宗淳は、まさにその重大な役割を担った中心人物の一人であった。

3. 貞享2年の西国巡歴と『熊本藩年表稿』の記録

宗淳の活動を最も特徴づけるのは、机上の研究にとどまらず、自ら現地へ赴く「史料採訪」の徹底である。とりわけ貞享2年(1685)の西国巡歴は、その規模と内容から見て極めて重要である。

熊本側に残された『熊本藩年表稿』や「嶋屋日記」には、この年の7月、次のような驚くべき記録が残されている。

すなわち、「水戸の家来佐々助三郎・丸山雲平上下12人」が「西国筋古跡社堂見廻り」のため、揃って熊本を訪れたというのである。さらに山鹿においては、佐々助三郎と丸山雲平が正観寺を訪れ、寺の宝物を丁寧に閲覧し、諸国の古跡を調査していたことまで細かく記録されている。

ここには、後世のドラマにおける「助さん」の原型を考えるうえで、決定的に重要な歴史的事実が存在する。同時代の地方記録そのものが、彼を「佐々助三郎」と記し、「古跡社堂見廻り」のために西国を巡っていたと記録しているのだ。

つまり、「助さんが全国を旅する」という物語の定型には、後世の創作だけではなく、佐々介三郎宗淳が実際に史料を求めて諸国を巡ったという確固たる史実がその根底に流れているのである。

4. 九州・薩摩・日向への綿密なフィールドワーク

この西国採訪は、単なる一地方への物見遊山ではない。宗淳の調査は九州各地を広く網羅し、寺社・旧家・古跡などに眠る歴史資料を徹底的に洗い出すものであった。

熊本の記録に見られる彼らの行動様式は非常に興味深い。それは、

寺社を訪ねる

宝物を見る

古跡を見る

由緒を聞く

記録を調べる

という手順を踏んでおり、これはまさに今日の歴史学でいう「現地調査(フィールドワーク)・史料調査・聞き取り調査」の先駆けそのものである。さらに重要なのは、宗淳の調査報告そのものが現在に伝わっている点である。

『大日本史編纂記録』に収められた「西国御用状留」には、熊本における詳細な調査報告が残されており、現在確認できる部分だけでも174~196頁に及ぶ大ボリュームを誇る。国立国会図書館の資料検索でも、宗淳の熊本採訪を扱った研究書『佐々宗淳と熊本―西国史料探訪の旅』が確認できるほどであり、彼が旅先で何を調べ、何を史料として持ち帰るべきかを的確に判断していたことを雄弁に物語っている。

5. 資料の「新規性」を重んじる近代的な姿勢

特筆すべきは、宗淳が集められる資料を何でも無批判に採用したわけではない点である。後世の研究においても、宗淳の史料評価には、資料の「新規性」やその真偽を厳しく見極める姿勢があったことが指摘されている。

これは、水戸藩の修史事業が持っていた本質的な性格をよく表している。「どこかの歴史書に書いてあるから正しい」という権威主義に頼るのではなく、各地の原資料を実際にこの目で確認し、それらを比較対照して歴史を再構成するという厳格な方法論である。

この点において、宗淳の全国行脚は単なる「資料集め」の枠を超え、水戸藩が進めた実証的な歴史研究そのものの方法論を現場で実践する一大活動であったといえる。

6. 奈良・大和での継続的な史料採訪と『続南行雑録』

宗淳の史料採訪活動は、一度きりの九州旅行に終わらなかった。元禄年間には奈良・大和方面でも精力的に史料採訪を行い、その大きな成果は『続南行雑録』という記録集として結実している。

この史料は元禄5年(1692)に成立したものであり、春日社神主中臣祐茂らの記録や、さまざまな寺社関係の記録を豊富に収録している。『続々群書類従』にも収録されており、宗淳が畿内において寺社や旧家の古い記録をどれほど具体的に調べ上げたかを今日に伝えている。すなわち、宗淳の「旅」は単発の大旅行ではなく、畿内、九州、中国、北陸などを何度も訪れ、必要な地域へと繰り返し足を運ぶ、極めて継続的かつ組織的な史料採訪活動だったのである。

7. 那須地方における古墳と金石文の調査

宗淳の活動の性格をさらに明瞭に示しているのが、元禄5年(1692年)に徳川光圀の命を受け、佐々宗淳や大金重貞らが実施した那須の侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の調査である。これは墳墓を単に掘り起こすのではなく、出土品や遺跡の保護までを計画的に行うという、近代の文化財保護や発掘調査の原点ともいえる厳格な処置が取られていました。

この様な「発掘・記録・遺物の保護(箱詰め・埋め戻し)・墳丘の修復」という一連のプロセスを体系的に実行した点に、今日の発掘考古学および文化財保護の基礎としての大きな歴史的意義があります。

8. 光圀の「目と足」としての役割

宗淳の活動の全体像を正しく理解するには、徳川光圀との信頼関係を見落とすことはできない。光圀は『大日本史』を編纂するにあたり、自らの政治的主張や偏った考えに合う歴史を無理に作ろうとしたのでは決してなかった。「正しい歴史を記すためには、できる限り多くの史料を集め、比較し、厳密に検討しなければならない」という強固な信念を持っていたのである。

しかし、一国の藩主である光圀が自ら全国を歩いて実地調査を行うことは物理的に不可能である。そこで光圀は、彰考館の優れた学者たちを日本全国へ派遣した。宗淳はその最も信頼された実働者の一人であり、茨城県立歴史館が宗淳の業績を絶賛する所以もここにある。

茨城県立歴史館が『大日本史』の編纂記録を近世思想・史学史研究における極めて重要な基本史料として位置づけていることからも、この事業が単なる藩内の記録編纂の枠を超えた、日本史学史上の偉業であったことがよく分かる。

現場における宗淳は単なる御用聞きや使者ではなく、現地で史料をこの目で見て、「これは歴史叙述に極めて重要である」「これは後世の作り話や単なる伝承にすぎない」「これは既存のどの史書にも載っていない新資料である」と的確に判断し、その選別された情報を水戸の彰考館へ持ち帰る目利きであった。彼はまさに、光圀の「目」と「足」となって全国の歴史現場を駆け抜けた人物であったといえる。

9.晩年と僚友・安積澹泊との絆

数々の過酷な全国踏査を成し遂げた宗淳は、元禄元年(1688)に彰考館総裁へと就任し、組織のトップとして修史事業を牽引した。その後、元禄9年(1696)に彰考館を辞した後は、西山の隠居所にいる光圀に近侍し、その晩年を支え続けた。そして元禄11年(1698)、宗淳は59歳で波乱の生涯を閉じた。

宗純の死後、その偉大な功績を讃える墓碑「十竹居士佐佐君之墓」の撰文をしたのが彰考館で共に光圀公を支えた僚友で16歳下の安積澹泊であり、のちにドラマの「格さん」のモデルでもある。

その意味において佐々宗淳は、光圀の物語を彩る従者としてではなく、光圀の先進的な歴史認識を全国の現場で支え抜いた、日本史に燦然と輝く重要かつ不可欠な史臣として高く再評価されなければならない。

「余談」 四国を旅した記録は残っていないが、宗淳の父・佐々直尚は、はじめ讃岐(現在の香川県)の生駒高俊に仕えていました。しかし、生駒騒動によって讃岐を立ち退くこととなり、その移動の途上、瀬戸内海の一小島で宗淳が生まれたため、幼名を「島介」と名付けたという伝記が残っています。

【水府系纂 第47巻】