テレビドラマ『水戸黄門』において、水戸光圀公の側近として印籠を掲げ、諸国を漫遊する豪傑「助さん」そのモデルとして一般に広く知られているのが、水戸藩の史臣・佐々介三郎宗淳(さっさ・そうじゅん1640―1698)である。しかし、歴史のなかに実在した宗淳の姿は、剣を携えて旅に随行するだけの架空の人物像とは大きく異なっている。
実在の宗淳の本当の仕事は、自ら全国各地に足を踏み入れ、古文書・系図・寺社縁起・碑文・古器物・古跡などを実地に調査し、近世日本を代表する歴史書『大日本史』の根拠となる膨大な歴史資料を収集することであった。
茨城県立歴史館も、宗淳の修史事業における最大の業績を「関西・九州・中国・北陸など全国各地にわたる史料採訪」と位置づけている。本稿では史実に基づき、宗淳の生涯、全国を巡った採訪の実態、そして水戸藩の歴史学に果たした画期的な意義について詳述する。
妙心寺の禅僧から還俗、そして彰考館へ
佐々介三郎宗淳は、寛永17年(1640)に生まれた。若き日の彼は俗世を離れ、15歳の頃に京都の妙心寺で禅僧となり、「祖淳」と号して厳しい修行に励んでいた。しかし、その後還俗して江戸へと出ることになる。そして延宝2年(1674)、35歳のときに徳川光圀の史局である彰考館に入り、本格的に修史事業に携わることになった。
彼の通称は介三郎、号は十竹といい、当時の歴史史料には「佐々助三郎」と表記される例も見出せる。さらに、茨城県立図書館が所蔵する宗淳自筆の書簡においても、署名は「佐々木介三郎」として残されている。こうした名義の揺れや記録の残し方も、彼が歴史の表舞台と現場の間でいかに活発に活動していたかを物語る証左といえる。
2. 『大日本史』編纂が求めた「原史料」の重視
徳川光圀が進めていた『大日本史』の編纂は、単に既存の歴史書を寄せ集めて書き写すような生易しい事業ではなかった。古代から南北朝・室町期に至る日本の歴史を、できる限り原史料によって厳密に検証し、新たな歴史書として編み直そうとする、類まれな巨大プロジェクトであった。
そのためには、江戸や水戸の藩邸に集められた既存の書物だけでは到底足りなかった。歴史の舞台となった実際の土地へ人を送り、そこに今なお残る記録そのものを直接調査する必要があったのである。宗淳は、まさにその重大な役割を担った中心人物の一人であった。
3. 貞享2年の西国巡歴と『熊本藩年表稿』の記録
宗淳の活動を最も特徴づけるのは、机上の研究にとどまらず、自ら現地へ赴く「史料採訪」の徹底である。とりわけ貞享2年(1685)の西国巡歴は、その規模と内容から見て極めて重要である。
熊本側に残された『熊本藩年表稿』や「嶋屋日記」には、この年の7月、次のような驚くべき記録が残されている。
すなわち、「水戸の家来佐々助三郎・丸山雲平上下12人」が「西国筋古跡社堂見廻り」のため、揃って熊本を訪れたというのである。さらに山鹿においては、佐々助三郎と丸山雲平が正観寺を訪れ、寺の宝物を丁寧に閲覧し、諸国の古跡を調査していたことまで細かく記録されている。
ここには、後世のドラマにおける「助さん」の原型を考えるうえで、決定的に重要な歴史的事実が存在する。同時代の地方記録そのものが、彼を「佐々助三郎」と記し、「古跡社堂見廻り」のために西国を巡っていたと記録しているのだ。
つまり、「助さんが全国を旅する」という物語の定型には、後世の創作だけではなく、佐々介三郎宗淳が実際に史料を求めて諸国を巡ったという確固たる史実がその根底に流れているのである。
4. 九州・薩摩・日向への綿密なフィールドワーク
この西国採訪は、単なる一地方への物見遊山ではない。宗淳の調査は九州各地を広く網羅し、寺社・旧家・古跡などに眠る歴史資料を徹底的に洗い出すものであった。
熊本の記録に見られる彼らの行動様式は非常に興味深い。それは、
寺社を訪ねる
宝物を見る
古跡を見る
由緒を聞く
記録を調べる
という手順を踏んでおり、これはまさに今日の歴史学でいう「現地調査(フィールドワーク)・史料調査・聞き取り調査」の先駆けそのものである。さらに重要なのは、宗淳の調査報告そのものが現在に伝わっている点である。
『大日本史編纂記録』に収められた「西国御用状留」には、熊本における詳細な調査報告が残されており、現在確認できる部分だけでも174~196頁に及ぶ大ボリュームを誇る。国立国会図書館の資料検索でも、宗淳の熊本採訪を扱った研究書『佐々宗淳と熊本―西国史料探訪の旅』が確認できるほどであり、彼が旅先で何を調べ、何を史料として持ち帰るべきかを的確に判断していたことを雄弁に物語っている。
5. 資料の「新規性」を重んじる近代的な姿勢
特筆すべきは、宗淳が集められる資料を何でも無批判に採用したわけではない点である。後世の研究においても、宗淳の史料評価には、資料の「新規性」やその真偽を厳しく見極める姿勢があったことが指摘されている。
これは、水戸藩の修史事業が持っていた本質的な性格をよく表している。「どこかの歴史書に書いてあるから正しい」という権威主義に頼るのではなく、各地の原資料を実際にこの目で確認し、それらを比較対照して歴史を再構成するという厳格な方法論である。
この点において、宗淳の全国行脚は単なる「資料集め」の枠を超え、水戸藩が進めた実証的な歴史研究そのものの方法論を現場で実践する一大活動であったといえる。
6. 奈良・大和での継続的な史料採訪と『続南行雑録』
宗淳の史料採訪活動は、一度きりの九州旅行に終わらなかった。元禄年間には奈良・大和方面でも精力的に史料採訪を行い、その大きな成果は『続南行雑録』という記録集として結実している。
この史料は元禄5年(1692)に成立したものであり、春日社神主中臣祐茂らの記録や、さまざまな寺社関係の記録を豊富に収録している。『続々群書類従』にも収録されており、宗淳が畿内において寺社や旧家の古い記録をどれほど具体的に調べ上げたかを今日に伝えている。すなわち、宗淳の「旅」は単発の大旅行ではなく、畿内、九州、中国、北陸などを何度も訪れ、必要な地域へと繰り返し足を運ぶ、極めて継続的かつ組織的な史料採訪活動だったのである。
7. 那須地方における古墳と金石文の調査
宗淳の活動の性格をさらに明瞭に示しているのが、元禄5年(1692年)に徳川光圀の命を受け、佐々宗淳や大金重貞らが実施した那須の侍塚古墳(上侍塚古墳・下侍塚古墳)の調査である。これは墳墓を単に掘り起こすのではなく、出土品や遺跡の保護までを計画的に行うという、近代の文化財保護や発掘調査の原点ともいえる厳格な処置が取られていました。
この様な「発掘・記録・遺物の保護(箱詰め・埋め戻し)・墳丘の修復」という一連のプロセスを体系的に実行した点に、今日の発掘考古学および文化財保護の基礎としての大きな歴史的意義があります。
8. 光圀の「目と足」としての役割
宗淳の活動の全体像を正しく理解するには、徳川光圀との信頼関係を見落とすことはできない。光圀は『大日本史』を編纂するにあたり、自らの政治的主張や偏った考えに合う歴史を無理に作ろうとしたのでは決してなかった。「正しい歴史を記すためには、できる限り多くの史料を集め、比較し、厳密に検討しなければならない」という強固な信念を持っていたのである。
しかし、一国の藩主である光圀が自ら全国を歩いて実地調査を行うことは物理的に不可能である。そこで光圀は、彰考館の優れた学者たちを日本全国へ派遣した。宗淳はその最も信頼された実働者の一人であり、茨城県立歴史館が宗淳の業績を絶賛する所以もここにある。
茨城県立歴史館が『大日本史』の編纂記録を近世思想・史学史研究における極めて重要な基本史料として位置づけていることからも、この事業が単なる藩内の記録編纂の枠を超えた、日本史学史上の偉業であったことがよく分かる。
現場における宗淳は単なる御用聞きや使者ではなく、現地で史料をこの目で見て、「これは歴史叙述に極めて重要である」「これは後世の作り話や単なる伝承にすぎない」「これは既存のどの史書にも載っていない新資料である」と的確に判断し、その選別された情報を水戸の彰考館へ持ち帰る目利きであった。彼はまさに、光圀の「目」と「足」となって全国の歴史現場を駆け抜けた人物であったといえる。
9.晩年と僚友・安積澹泊との絆
数々の過酷な全国踏査を成し遂げた宗淳は、元禄元年(1688)に彰考館総裁へと就任し、組織のトップとして修史事業を牽引した。その後、元禄9年(1696)に彰考館を辞した後は、西山の隠居所にいる光圀に近侍し、その晩年を支え続けた。そして元禄11年(1698)、宗淳は59歳で波乱の生涯を閉じた。
宗純の死後、その偉大な功績を讃える墓碑「十竹居士佐佐君之墓」の撰文をしたのが彰考館で共に光圀公を支えた僚友で16歳下の安積澹泊であり、のちにドラマの「格さん」のモデルでもある。
その意味において佐々宗淳は、光圀の物語を彩る従者としてではなく、光圀の先進的な歴史認識を全国の現場で支え抜いた、日本史に燦然と輝く重要かつ不可欠な史臣として高く再評価されなければならない。
「余談」
四国を旅した記録は残っていないが、宗淳の父・佐々直尚は、はじめ讃岐(現在の香川県)の生駒高俊に仕えていました。しかし、生駒騒動によって讃岐を立ち退くこととなり、その移動の途上、瀬戸内海の一小島で宗淳が生まれたため、幼名を「島介」と名付けたという伝記が残っています。
【水府系纂 第47巻】