文化と人物
水戸黄門にまつわる読み物・コラム。
黄門様の印籠について
製作中
水戸黄門漫遊記について
製作中
黄門様と儒医井上玄桐について
製作中
都々逸坊扇歌について
製作中
水戸藩の歴史と共に歩んできた、
笠原町の魅力をご紹介します。
笠原町は茨城県水戸市の南部に位置し、古くから水戸藩の歴史と深く結びついた地域です。徳川光圀公が整備を命じた笠原水道をはじめ、数多くの史蹟が今なお残されています。
現在は茨城県庁をはじめとする行政機関が集積する水戸の中心地のひとつとして発展を続けながらも、昔ながらの風情を感じさせる場所が随所に息づいています。
水戸藩の時代から続く
笠原町の歩みをたどる。
このセクションは製作中です。笠原町の歴史と生い立ち、変わりゆく笠原の姿を、資料と共にお届けします。
徳川光圀公、笠原水道の開削を命ずる
農村地帯から都市化への変遷
茨城県庁が笠原町に移転
行政・商業の中心地として発展を続ける
偕楽園の白梅 ── 光圀公が愛でた早春の風景
笠原町に残る歴史的な名所・旧跡をご紹介します。
笠原山銀河寺伝来
製作中
2-1 銀河寺不動院の歴史 製作中
2-2 不動明王立像について(水戸市指定文化財)製作中
古学庵仏兮の供養碑 — 水戸市笠原町
古学庵仏兮(こがくあん ぶっけい)は、江戸時代中期の俳人。笠原山銀河寺の住職を務めた人物で、松尾芭蕉の門人・杜友(とゆう)に師事し、俳諧の道を究めました。
仏兮は寛政年間に笠原の銀河寺に住し、俳諧を嗜む温和な人柄で知られました。諸国の俳人を水戸に来て遊ばせ、笠原山銀河寺は俳諧の拠点として賑わったと伝わります。
享和4年(1804年)9月に本山の命により母を伴って京都へ向かう途中、田沢で舟が転覆し母と共に溺死しました。享年36歳でした。
仏兮の13回忌にあたる文化13年(1816年)11月26日、湖中の社友はこれを深く悲しみ、笠原の水源に供養碑を建立しました。碑には仏兮の句が刻まれています。
湖中は仏兮没後4年後の文化8年(1831年)に『俳諧 葉雀集』を刊行。この供養碑は、笠原の俳諧文化の歴史を今に伝える貴重な史蹟です。
3-1 笠原水道 製作中
3-2 浴徳泉碑 製作中
3-3 漱石所址 製作中
3-4 金名水・銀名水 製作中
製作中
製作中
製作中
製作中
製作中
弘道館の紅梅 ── 光圀公が創設を構想した藩校の地
水戸黄門にまつわる読み物・コラム。
製作中
製作中
製作中
製作中
常に御側に仕えて居た儒医にしか知り得ない
——豊田洋一「あとがき」より
生身の黄門さまが目の前に現れたようで、
甚く感動した事を今でもはっきりと覚えています。
心で斬って助命 ── 光圀公の慈悲と政治の知恵を伝える一話。
藩主時代に松前から取り寄せた丹頂鶴のつがいを、小石川の庭で飼っていましたが、ご隠居の後に西山へ移して白坂で飼われました。時々籠を開けて放すと、西山をはじめ近所の村々まで歩いていきました。その高潔な様子は、誠に隠居所の素晴らしい眺めであると言い合っていましたが、どんな者の仕業か、西山の近所の天神林にある「鶴が池」という所で、オスの鶴が背骨を刀で斬りつけられた痕があって死んでいました。残ったメスの鶴は久昌寺へ送られました。
いろいろ取り調べましたが犯人は知れませんでしたが、時が経って天神林村の百姓の下人・長作という者が自首して牢獄に繋がれました。昔から「鶴を殺す者は助命嘆願も許されない」という掟があります。まして光圀公の愛鳥を殺したのですから、どんな重罪になるだろうと人々は言い合いました。
ちょうど湊(那珂湊)へお出かけになった時、代官の五百城茂太夫がその囚人を引き連れて来て、御長屋につないでおきました。「明日は光圀公が御自ら袈裟懸けに斬る」とのことでした。
翌日、朝から玄関の前へ砂を持ち込んで処刑の土壇場を築きました。朝食過ぎに「いざ表へ出るぞ」と仰せがありました。その時、大聖院と帰願寺という僧侶が詰めていましたが、「大聖院は来るな、帰願寺だけ参れ」と言って連れて行かれ、囚人を土壇場に座らせました。
光圀公は右の衣を肌脱ぎし、刀を取って後ろに控えられました。そして囚人の前へ近寄り、「あの肌脱ぎのさせ方は悪い」と言って、ご自身の手で腹の方を押し開けさせ、「お前は爪先から頭のてっぺんまでズタズタに斬っても飽き足りない。罪のない鶴を殺して、今我が身に報いが来たことを悔しく思うだろう」などと仰いました。
そして羽織を退け、袴の裾を高くからげ、脇差を抜いて後ろへ回り、長作の右肩に刀を二度当てて狙いを定められました。斬る場所を定めたと見えました。もはや刀を振りかぶって斬り放つばかりと見守っていましたが、しばらく躊躇されたので、「どうされたのか」と見守っていると、「新八」とお呼びになりました。中村新八が御意に従って「はっ」と答えてお側近くへ参りました。
「あまりの腹立たしさに手にかけて斬ろうとこのようにした。刃を放つということは、この刀を振り上げたまでの動作である。精神的にはもはや斬ったのと同じことだ。この者を斬ったからといって鶴が生き返ることはない。鳥ごときのために人を死刑にするのは悪い政治である。助けてやろうと思う」
と仰ったので、新八は「ごもっとも至極、ありがたいお言葉です」と申し上げ、居並ぶ者たちは皆万歳を唱えてどよめきました。
「それでは茂太夫に申し付けて、夏海の境界へ追放せよ。ただし、どこへ行っても与えられる物がなければ飢え死にするだろう。それでは助けた甲斐がない。米を少し袖へ入れて与えよ」
と仰ったので、村島奥十郎が長屋で飯を食べさせ、米を与えました。そして茂太夫が役人共に命じて追放しました。行く先々でも、「鶴を殺して斬られるはずの者が、君のご慈悲に助けられたのだから、飢えさせたり凍えさせたりするな」と言って人々が育んだので、困窮することなく暮らしたということです。
後に仰ったことには、「僧侶の大聖院を止めたのは、もし彼が助命嘆願を言い出したら処刑の芝居が崩れると思って連れて行かなかったのだ。帰願寺は俗人と同然の人だから、連れて行っても差し支えないと思ったのだ」とのことでした。
※ 本書は非売品です。お近くの図書館でお手に取りください。